2020年的な成熟と喪失に対する距離感を如実に表現した快作

既視感をシャワーのように浴び続けて不惑も過ぎると、年に1度ぐらい訪れる未知との遭遇にも、「不可解な前兆」という一定の傾向があることを、おぼろげに理解するようになる。同世代で浜松市出身の小島ケイタニーラブのニューアルバム『はるやすみのよる』も、不可解が綺麗に表面をコーティングしていた。でも、何回も聴き込んでいくと、作品の核心には誰も描いていない世界が提示されていることに気づく。

小島ケイタニーラブのニューアルバム『はるやすみのよる』は、彼の過去のアルバム同様キャッチーで優しい。YMOのサポートメンバーとしても知られるMETAFIVEのゴンドウトモヒコをプロデューサーに迎えたアレンジは軽快でリズムを取りたくなるし、「NHK みんなのうた」のために作曲された「毛布の日」は無垢な子ども時代のぬくもりの記憶を喚起させる。小説家の古川日出男氏らとの朗読劇「銀河鉄道の夜」のために作曲された「フォークダンス」も、ノスタルジーと優しさに包まれている。そして、「いつかの僕に、いつかのあなたに語りかけるようなアルバムになってほしい」と本人が語るように、過去に対する、あるいは未来からの今に対するパースペクティブがこのアルバムにはある。

でも、そこには心地よい安心感だけではなく、若さを失っていくことに対する感覚、あるいは「そこには期待しかない」とはいえない未来に対する思いも垣間見える。特に東京を走り回る飛べなくなったカモメを歌うアップテンポな「東京カモメ」、そして、おじさんになった少年の心情を率直に歌った「オトナノコイ」には、ミュージシャン本人の成熟の受容/拒否の摩擦がある。ただそれがわかりづらいのは、その摩擦が「諦念」「不安」「受容」という言葉で単純にくくれないからだ。そもそもこのアルバムの表題曲は本人によれば、小学生の頃、うまく別れることのできなかった友達との思い出を歌った曲なのだという。

90年代後半の「大人は楽しい」的な「大人子ども」の全面肯定でもなければ小沢健二が「大人になれば」で示唆したような成熟の受容でもない。松本大洋の「花男」的超人中年ファンタジーとも違う。歌詞の「おっさんだって君と恋したい」の「だって」という逆説の接続詞が、すべからく大人に訪れる「成熟と喪失」に対する作者のアンビバレントな(だからこそ誠実な)態度を表している。(野田秀樹の「エッグ」の残像をチラつかせながら)2020年の祝祭に向かう日本社会において、肉体的、社会的変容と子ども心の継続を、どのように受け入れるのか、という通底音がアルバムを通して微妙に揺れ続けている。そのバランス=態度の新しさが、初めてアルバムを聴く人間にとまどいを与えるのだと思う。

でも、というか、だからこそこの曲には2000年前後に青春時代を送ったある種の日本人男性のリアリティが、きちんと埋め込まれている(何回も聴き込んでいくとよりよくわかる)。「オトナノコイ」は森高千里の「私がオバさんになっても」に対するアンサーソングという捉え方もできる。

先日、本人は中国に生活の拠点を移すことを発表したが、きっと50代になっても60代になっても世界のどこにいても、彼は歌い続けているだろう。自分自身も小島ケイタニーラブという素晴らしいミュージシャンの良きリスナーとして年を重ね続けたい。そんな勇気を与えてくれるアルバムだ。

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