-言葉に使われてしまう場面は、私自身いろいろなところで出くわします。

田中 もっと言えば、肉体の使われ方だって、規定されていますよ。手の動かし方ひとつとっても、その人の脳に刻まれた性格があります。そこから自由になるためには、自分をゼロにする作業、裸になる作業が必要です。今だって早口にならないように、ゆっくりになりすぎないように速度を調節して話している。場所にはその場所に適した速度感、身体にはその身体に適した速度感があって、そこに自在に沿わなくてはいけない。ダンサーって身体のプロフェッショナルなんです。素朴に「身体って何だ?」という疑問を問い続けていく。「なんで人間はこの身体を使って歌ったり踊ったり、絵を描いてきたりしたんだろう?」と尋ね続けなくてはいけない。人間は誰に見せるわけでもなく歌い踊り、一方で、ジェスチャーのように身体を使って、コミュニケーションのために一生懸命表現してきたに違いないわけです。

-今回の場踊りのタイトルを「ひとつハゲがある」と題した理由を教えてください。

田中 きっかけとしてのタイトルです。なんとなく小さな思い出に触る瞬間を題にしたかった。僕の子供の頃って、みんなハゲがあったんですよ。ひょうきんな男の子が、みんなの間を回りながら「横っちょにハゲがある」とか囃し立てるわけです。「あ、俺にもある、俺にもある」って、平気で言い合う。深刻にならずにばーっと面白くしちゃう。一人の人間が生まれてから死ぬまでって、膨大な時間かもしれないけれど、人という種にとってみれば、大した時間じゃないとも言える。僕はそれよりも、人間全体が影響しあって、一個人の中身が進行していることのほうが面白いなって思う。一個人の記憶や思い出は、たしかに大事にすべきだけれど、「現在のことだ」って考えないと損だと思うんです。思い出って、すごく遠くにあるようだけれど、現在のすぐ近くにあるって思わないと。すでに経てしまった時間ではなく、常に現在に意識を持ってくるべきなんです。「いや、昨日生まれたんだよ」って言えるようなことでいいんじゃないかと思うようになったんですよ。これ、かなり大切なことのような気がする。世の中が目先の効率的な時間配分ばかり気にして、手っ取り早く手本を情報として入手することで、自分の生々しい人生が、不在になっていく。それは不味いですよ。常に現在が続いているって考えないと。中学生の頃から引っかかっている自分にとっての事件を「やっぱり明日解消しよう」と思ったって構わない。過去の出来事を昔のことだからといって触れないようにしちゃうなんてことは、僕は間違いだと思う。相手を訪ねて、明日謝りに行ったっていい。でも「それが人生だから」ってやり過ごしちゃう。そういうもんだって諦めてしまう。それはたまらんですね。

-時間の経過による身体の変化についてどのように考えていますか?

田中 身体って、私たちの意識よりもはるかにすごいなと思います。すごいことをやってる連中です。「私」なんかよりはるかにすごいですよ。いまそういう質問をしたってことは、あなたは、頭脳より身体のほうを下に見ているでしょ。全然違う。この頭をつくっているのは身体ですよ。最初に身体ありきなんです。血管がちょっと狂ったら頭はだめになります。食い物がちょっと変われば頭はダメになります。おそろしいです。とんでもないです。絶対に頭は身体に勝てない。そして、身体が喜んでいた時代を日本人が捨てて、まだそれほど時間はたっていません。

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