「アジアの端の島国に住んでいる日本人として、法王庁の中庭でひとこと物申したい」

静岡県が世界に誇るSPAC(静岡県舞台芸術センター)がいよいよ7月6日(現地時間)、フランス・アヴィニョン演劇祭で、オープニングアクトを務める。アジア圏の劇団が、アヴィニョンの法王庁中庭でオープニングアクトを飾るのは、71年に及ぶ演劇祭史上、初の快挙。静岡市内で渡仏前の最終リハーサルを行なっていた宮城聰芸術総監督に意気込みをうかがった。

文責/聞き手 小林稔和(取材日2017年6月21日)

− 2014年に『マハーバーラタ〜ナラ王の冒険〜』が同じアヴィニョン演劇祭のメイン会場のひとつ「ブルボン石切場」で上演され、大喝采を浴びたと報じられました。それが強く記憶に残っています。そもそもアヴィニョン演劇祭に、公式プログラム、しかもオープニングアクトとしてSPACが再び招聘された価値について、わかりやすく教えてくれませんか?

宮城 世界の演劇界におけるアヴィニョン演劇祭の位置付けは、わかりやすく例えると、「紅白歌合戦」みたいなものです。オープニングで上演するのは、紅白でトリを飾るようなもの。SPACがオープニングに選ばれたということは、異国趣味や物珍しさといった掛け値は一切なく、世界の劇団の5本の指に入った、ということです。そもそもアヴィニョン演劇祭に参加する演出家って、フランス人だけで半数近くを占めています。そこにアジア圏の人間が参加するだけでも珍しい。外国人演出家がフランスの劇団を演出することはもちろんありますよ。でも劇団として参加するのは、本当に並大抵のことじゃないんです。僕自身、30年ほど前、学生時代に演出家として食べていくことを決めたとき、「一度はピーター・ブルック(注:世界的なイギリス人演出家)が1985年に『マハーバーラタ』を上演したアヴィニョンの舞台に立ちたいものだ」と願っていました。だから、2014年に公式プログラムとして招待され、石切場でピーター・ブルックへのオマージュでもある『マハーバーラタ』を上演したとき、大きな目標は達成したんです。だから今回はボクシングでいうとチャンピオンベルトの防衛戦みたいな感じですね。話を受けた時は、うれしいというより、受け身の感情が強かった。

− どのような経緯で今回の招聘が実現したんでしょうか。

宮城 昨年6月、パリのケ・ブランリー美術館で新作『イナバとナバホの白兎』を上演しました。その際、アヴィニョン演劇祭の運営側が、『マハーバーラタ』だけだとフロックかもしれないということで、この最新作の上演をチェックしていたんです。『マハーバーラタ』は僕の代表作といえる作品で、何度も上演してきたから自信があった。でも向こうからしたら、オープニングを任せるには、保証がいる。それで新作のクオリティをチェックして、「ああ、これなら大丈夫だろう」と納得した上でオープニングアクトを任せてくれたんだと思います。

「アヴィニョン演劇祭でのオープニングアクトは、世界の演劇界において、「紅白歌合戦」のトリを飾るようなもの」と意気込みを語る宮城聰SPAC芸術総監督

 

− 外野の素人がいうのも失礼ですが、プレッシャーが尋常ではないのでは?

宮城 非ヨーロッパ圏の演劇界を背負っているようなものですから…、当然あります。最初は気が重くて「勝ち」ではなく「引き分け」に持ち込むつもりだったし、正直、ここまで大きなビッグマッチが用意されなくても良かったとさえ思いました(笑)。

− 『マハーバーラタ』のときは、チャレンジャーだったんですね。

宮城 はい。でも、昨年の演劇祭で法王庁の見学を兼ねてアヴィニョンを訪れた時、「何か一言ここでものを申したい」という感情がふつふつと湧き上がってきたんです。そして「ここなら『アンティゴネ』だろう」とその場で閃いた。すぐに日本にいる舞台監督と美術監督に電話して、下見に来るように要請しました。「飛行機代は僕が自腹で払うから」って。

− 法王庁は、1309年のアヴィニョン捕囚開始から1417年のコンスタンツ公会議まで、中断はあるものの教皇(法王)が居住し、キリスト教世界の中心だった場所です。その場所の何が宮城さんをかり立てたんでしょうか。

宮城 法王庁は決して「遺跡」じゃありません。今現在に続く力が冷凍保存されている場です。今日の世界を覆っている二元論的な価値観、争いの構図が凝縮されている場、西洋の権力が形象化されている場です。そこで、東洋の端っこの島国の地方劇団がオープニングを演じる。こんなチャンス、ぜったい無にできない。非ヨーロッパ言語のオープニングアクトは演劇祭において初めてです。新しい扉が開いたのだから、観客が「えっ!?」って思うものを、きちんと提示しなくてはいけない。古代ギリシアの劇作家ソポクレスの原典を踏まえ、ギリシア悲劇の原点に則りつつ、一神教にとって物議をかもす寓意を込めています。ギリシア悲劇なのに、そもそも冒頭から仏教の僧侶が登場するんだから、現地の演劇ファンもきっと驚くんじゃないかな。

アンティゴネの叔父であるクレオン王を演じる俳優の大高浩一

 

− SPACの『アンティゴネ』の原型は、ク・ナウカ時代の2004年に宮城さんがギリシャ・デルフィの古代競技場などで上演されたものです。同作のテーマは権力、二項対立に対する意義申し立てだと宮城さんはこれまでに説明しています。演出を全面的に改めたSPAC版『アンティゴネ』は、今年のゴールデンウィークの「ふじのくに⇄せかい演劇祭」でお披露目されました。舞台会場の駿府城公園も、徳川家康が大御所として約10年間日本の政治を支配した、かつての権力の中心地です。ただ、天守閣のない現在の駿府城址は、法王庁と違って開放的な印象を受けます。ヨーロッパと日本の権力に対する眼差しの違いでしょうか。

宮城 日本人には「いかめしさを見せびらかすのは格好良くない」という趣味があります。権力を誇示するのを成金趣味として忌避するというか。安土桃山時代は城郭の豪華さなどを競い合ったけれど、江戸幕府の三代将軍徳川家光の時代には薄れてしまいます。奈良時代につくられた寺社仏閣もいかめしいですが、あれは大陸文化の影響がある。京都の銀閣寺なんて足利将軍の別荘だとは思えないほど地味でしょ。だから駿府城の天守閣が江戸時代に再建されなかった理由のひとつに、そういった日本人の権威に対する感覚があったのではないかと僕は思ってるんです。西洋のように、何か形がないと尊敬されない文化ではない。一方、アヴィニョンの法王庁は、高さ30メートルの壁で囲まれています。要塞ですから、その威圧感は半端ではない。アヴィニョンの人に怒られちゃうかもしれないけれど、権力に抑圧された浮かばれない数多の霊が閉じ込められている感じすらします。だからこそ、「物申したい」という気持ちが、自分の中に湧き起こってきたんじゃないかな、と。

− どのような斬新な演出をアヴィニョンでは考えていますか?

宮城 法王庁中庭の舞台は石切場より空間の扱いが難しいなと感じました。これまでに何度か上演作品をその中庭で観たことがあるのですが、うまく空間を使えている作品が少ない印象を受けていたんですね。というのも中庭は、舞台面積が通常の2倍あります。まず、そこをどう活かそうか悩んだんです。無理に空間を埋めようとすると、逆にスカスカに見えてしまう。だから、巨大な水面を舞台に作ろうとスタッフと相談しました。そこは、現世と冥界をつなぐ、三途の川であり、ギリシア神話におけるアケロンの川です。冥界への入り口ですね。それを思いついたとき、関門をひとつ抜けたと思った。それと周囲を取り囲む高さ30メートルの壁。2000席ある客席は、急勾配で後方の客席からだと俳優の頭を遠くに見下ろす感じになってしまう。なので、登場人物の影を背面の壁に大きく映すことを試みます。先日も、グランシップの外壁を使って、実験しました。

高さ30メートルの法王庁の壁を模して、グランシップの西側壁面で影の映り具合を実験するSPACのスタッフ(6月19日、静岡市駿河区)

 

− 西洋におけるアジア文化の受容についてはどのようにお考えですか?単なるオリエンタリズム、異国趣味に陥らないようにするためにはどのようなことを?

宮城 観る人が観ればわかるんですが、要所でソポクレスの『アンティゴネ』に則っています。たとえば、ギリシア悲劇特有の「コンモス」(嘆きの歌)を取り入れています。ギリシア悲劇は理論と理論のぶつかり合いです。ところが、突如感情が発露する場面が現れる。これが「コンモス」です。「愁嘆場」って、日本の文楽や歌舞伎などにもありますよね。「かわいそうやな」って観客が思ってしまうような。ギリシア悲劇で用いられる様式や感性に似たものが、同じ多神教の国である日本には残っている。だから、その後一神教であるキリスト教を受容した西洋人より、東洋の端っこにいる僕たちの方がギリシア悲劇の感覚や様式をかえって理解しやすい側面がある。演じる側としてその前提を踏まえた上で、ギリシア悲劇の様式を踏襲していることを、観客にきちんと提示したいと思っています。

悲嘆にくれるアンティゴネを演じる俳優の美加理

 

− ギリシア悲劇を題材にしているのに、日本の伝統文化も随所に盛り込まれています。盆踊りも踊りますよね。ただし、スティールパンの入ったサンバ的なリズムで。

宮城 僕は、日本的な文化を腑分けしていけば、固有の文化、オリジンにたどり着けるだろうと考えていました。中国、インド、チベットとの違いを見つけようと思っていた。しかし、どこまでいっても文化は混交の産物で、アマルガム(合金)なものだと気付いたんです。インドだろうがチベットだろうが、日本だろうが、アメリカだろうがブラジルだろうが、フラスコの中で育つ文化はない。自分にないものを見つけることで文化は生まれる。つまり、文化は混交でしか前進しません。どこまでいっても、オリジナルの文化などない。文化と文化が変化しあって新しい文化が誕生するわけです。

− ただ、混交しているとバラバラになったり、ぐちゃぐちゃになったりすると思うのですが、SPACの演劇を特徴付ける文化的な多様性を、何が取りまとめているんでしょうか。

宮城 文化は多元的で、要素に優劣はありません。ただし、僕たちはこの土地で日本語を喋りながら生きています。作物、気候、風土、母語は選べないですよね。要素を詰め込む壺は、そういったものに規定されていているということです。

通し稽古をするSPACの俳優陣。タイミングなどを微調整する。ちなみにこの日、外は豪雨だった(6月21日、静岡市清水区)

 

− 文化の混交とともに、身体を表現する演者と語り手の分離をはじめ、分裂に伴う逃走的な不安と統一を希求するカタルシス的な感情が、宮城演劇の真髄だと観る側として勝手に感じているのですが…。

宮城 言葉と身体が、ステレオ画のように「ずれているけれど、一致している」のが理想です。幼少期、誰しも身体的な動作や欲求と発話は一致していませんよね。両親や周囲の大人が、俯瞰的に判断して何をしたいのか、何を言いたいのか汲み取っている。しかし、人間は成長するに従って、幼児だったときの自身の言葉と身体のずれを忘却し、最初から一致しているものだと思い込んでしまう。われわれは、その一致を獲得した上で、なおかつ乖離していた幼少期のユートピアにたどり着きたいと思っています。観る人には、焦点を合わせて乖離した身体と語りが一致するイメージを幻視してほしいんです。

− 最後に、静岡の演劇文化についてうかがわせてください。「ふじのくに⇄せかい演劇祭」も静岡の地に根付いてきました。今後どのように発展させていきたいですか?

宮城 すでに市民や県民の方が家族連れで、あるいは買い物帰りに、「ふじのくに⇄せかい演劇祭」を観劇に訪れてくれるような土壌ができつつあります。おかげさまで今年の「ふじのくに⇄せかい演劇祭」も大盛況でした。今後は、子供達も含め、多くの人たちがもっともっと演劇に触れる機会を増やしていきたい。そしてゆくゆくは、海外から観客が大勢訪れるようになり、静岡出身の俳優や劇団が、世界各地で活躍するようになってほしい。音楽祭と演劇祭の違いはありますが、ドイツのザルツブルク音楽祭のような演劇祭と開催都市が理想です。ゆくゆくは静岡が世界的な演劇の街に成長してくれたらうれしいですね。

− ありがとうございました。

〜関連情報〜
SPAC 公式サイト
アヴィニョン演劇祭の現地情報を含む詳細は、公式サイトへ。

【アヴィニョン演劇祭公演報告 スペシャルトーク】
8月11日(金・祝)13時半〜
静岡芸術劇場(静岡市駿河区池田79-4)
登壇 本広克行(映画監督)、宮城聰
(参加無料 要予約)